【2025年大河ドラマ】べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜ゆかりの地はどこ?

【2025年大河ドラマ】べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜ゆかりの地はどこ?

2025年放送の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」。

ドラマの舞台は江戸時代中期!町人にスポットが当てられ、同時代におけるエンタメ・メディアの王となった「蔦屋重三郎」の生涯を描きます。

本記事では「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の放送に先立ち、主人公である蔦屋重三郎ゆかりの地や、重三郎の時代にタイムスリップできるスポットをご紹介。ぜひ覗いてみてください!

目次

【2025年大河ドラマ】べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜ゆかりの地はどこ?

べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜とは?

べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜とは、2025年1月から約1年間、NHKで放送される大河ドラマの64作目です。

舞台は18世紀後半で、60作を越える大河ドラマのうち、この時代が描かれるのは初!時代劇の定番である合戦など、大きな争いごとが皆無な時代であり、なかなか斬新なドラマになるのではと口コミで期待されています。

主人公の蔦屋重三郎は大名でも武士でもない町人であり、極端に言えば当時の一般市民。地位も資産もありません。
そんな重三郎が、江戸時代でどう「メディアの王」になったのかが描かれます。

「蔦重」は何をした人?

蔦重こと蔦屋重三郎は政治を行った人でもなく、戦で名を挙げた人でもありません。重三郎は「版元」として、現在における出版社のような立場で、編集にも携わっていました。

当時娯楽として流行していた「狂歌」や、「洒落本」、「浮世絵」など、印刷していたものは多岐に渡ります。しかし商売は大繁盛し、喜多川歌麿や東洲斎写楽、栄松斎長喜など当時を代表する絵師を育てました。

「里見八犬伝」の曲亭馬琴や、「東海道中膝栗毛」の十返舎一九も重三郎の元で働き、後にそれぞれ名作を世に送り出します。

存命中から死後に至るまで「版元」として影響を残しており、まさに江戸時代における娯楽を支配していた人物と言えるでしょう。

ドラマの舞台はどこになる?

ドラマでは江戸時代のどこが描かれるのか明らかになっていませんが、重三郎が活躍した「吉原」(現在の浅草近く)の周辺が主な舞台になると思われます。

また浅草近辺には重三郎のゆかりの地や、重三郎が居たことがわかる史跡が残っています。

どんなゆかりの地があるのか、以下で見ていきましょう。

【蔦重ゆかりの地①】浅草

べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜_ゆかりの地

最初に紹介するのは蔦屋重三郎の生まれ故郷近くである「浅草」です。
浅草は台東区に位置し、都内でも有数の観光地として知られています。特に「浅草寺」や「雷門」は世界的にも知られているスポットですね。

伝統的かつ由緒正しい浅草寺が中心部にあり、周辺は「はなやしき」など大人から子どもまで楽しめる街の小型遊園地もあり。出店も多いので、じっくり散策をしても楽しめるエリアです。

「浅草駅」には東急線や東京メトロ、都営地下鉄がでもアクセスできます。

少年時代は今の台東区で過ごした?

重三郎が生まれた場所とされているのは、浅草近くにあった吉原(現:台東区千束)です。

前半生の多くはわかりませんが、その後小売りを始めたのも吉原近く。浅草周辺に長らく住んでいたと思われます。

江戸文化の最先端

べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜_ゆかりの地

現在こそ観光地としてのイメージが強い浅草ですが、江戸時代には「浅草御蔵」が設置されていました。当時ほとんどの武士は給料として米が支給されており、米(つまり給料)を保管していたのがこの御蔵です。

米を金銭に変える「札差(両替をする商人)」が手数料を取ることで大儲けし、富豪となっていきます。その富豪たちが豪遊する場所として発展した結果、最先端の文化が集まる場所となっています。

また重三郎が事業を始めた田沼時代は、娯楽に関してかなり自由が多く文化が育ちやすい時期でもありました。あらゆる最先端が集まる場所で生まれ育った重三郎は、流行りと需要を学ぶ機会が多かったのかもしれません。

【蔦重ゆかりの地②】吉原大門跡

蔦屋重三郎ゆかりの地として、外せないのが生まれ故郷である「吉原」の入り口、「吉原大門跡」です。重三郎が事業を始めた地でもあります。

吉原は幕府公認の遊郭街であったことが知られていますが、「蔦屋」は当初この吉原にある茶屋の屋号と伝わっています。

重三郎の事業は1774年に始まります。吉原大門口間道の左側に店を開き、吉原の案内本である「吉原細見」を卸して販売していました。このあと独立し、同時代の「メディア王」へと駆け上がっていきます。

なお現在はモニュメントが残るのみで、門の復元はされていません。

最寄り駅は「三ノ輪駅」で、徒歩10分ほどの距離です。

【蔦重ゆかりの地③】蔦屋重三郎耕書堂跡

蔦屋重三郎は吉原での小売を経て、1777年頃には独立。そして1783年、通油町(現在の中央区日本橋大伝馬町)に「耕書堂」を開きました。

この「耕書堂」で黄表紙・洒落本・狂歌本・錦絵など、江戸庶民の娯楽となる出版物を刊行。有力な地本問屋となり、その名を轟かせます。
今でいう作家のプロデューサー的な役割をこなして「喜多川歌麿」などを庇護し、大ヒットを記録させました。

現在お店はなく、「蔦屋重三郎耕書堂跡」として礎が残ります。名実ともに今も残る文化の発展に貢献し、今もなお愛される作品を輩出した文化の聖地的スポットです。

鉄道最寄り駅は都営地下鉄新宿線の「馬喰横山駅」。または東京メトロ日比谷線「小伝馬町駅」です。いずれからでも徒歩数分となっています。

苦悩の時代もここで……

「耕書堂」時代は順調に事業が成功して栄華の時代を過ごしていましたが、当時の江戸幕府はというと、田沼時代が終焉となりそれまでの自由な風がパタリと止んでしまいました。

一転して娯楽に厳しくする方針となり、重三郎も処罰を受け財産も半分が没収されます。

しかしそこからまた立ち上がり、前述した喜多川歌麿の「美人大首絵」や、「東洲斎写楽」という謎の人物の絵を140作品も販売。これらが大ヒットを記録し、処罰がなんのそのと復活を遂げることとなりました。

ちなみにこの東洲斎写楽は10ヶ月ほど活動した後に姿を消し、何者だったのかは現代でもわかっていません。大河ドラマではどう描かれるのでしょうか?

当時の記録も残されている?

出典: 国立国会図書館ウェブサイト

「富嶽三十六景」で知られる画家、葛飾北斎が挿絵を描いた「東遊あずまあそび」の1図「絵草紙店」には、当時の耕書堂を描いたものが残されています。

この絵が世に出た年、既に重三郎はこの世にありません。「耕書堂」自体は存続し、忙しい日々を送っていたことでしょう。

葛飾北斎も、重三郎の下で挿絵を描いていました。「富嶽三十六景」を描くのは、重三郎の死後となります。

【蔦重ゆかりの地④】正法寺

蔦屋重三郎ゆかりの地、最後にご紹介するのは「正法寺」です。こちらは、重三郎の菩提寺であるお寺になります。

墓所は震災と戦災によって失われてしまい、現在は墓碑と重三郎母子の顕彰碑が建っています。

最寄りは浅草駅ですが、バスで近くまで行ける「東武浅草駅」がおすすめ。都バス42‐2系統、「南千住駅西口」行きに乗って「今戸」で下車。所要時間は10分弱です。

浅草寺からは徒歩で約10分ほどの距離となっています。

近くには平賀源内の墓

この「正法寺」から隅田川の右手に北上し、都道314号を進んでいくと「平賀源内の墓」があります。

平賀源内はエレキテル製作者として著名ですが、元々は本草学者であり、戯作(娯楽小説)も執筆するなどさまざまな才能がありました。杉田玄白らが翻訳した医学書「解体新書」の原画は、源内の弟子によるものです。

吉原時代の重三郎の依頼で、序文を描くなど交友もあったことからドラマでも活躍しそうです。

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