原爆ドームのほかにも…広島・長崎の被爆建築物や被爆史跡を巡る

画像出典: HIRO / PIXTA(ピクスタ)

原爆ドームのほかにも…広島・長崎の被爆建築物や被爆史跡を巡る

2020年8月は広島・長崎の原爆投下から75年を迎えました。太平洋戦争当時のことを鮮明に覚えていらっしゃる方もだいぶ少なくなってきています。

近い将来、原爆や戦争のことを覚えている人がいなくなることは確実なので、この記憶をどうやって将来に向け語り継いでいくのかが課題です。

戦争という悲劇を後世に語り継いでいくためには「ヒト」と「モノ」の観点が重要ですが、今回は、特に建築物や史跡という「モノ」に焦点を当てます。あなたも、静かにたたずむ建築物・史跡を通してあの時何があったのかを紐解いてみませんか。

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原爆ドームのほかにも…広島・長崎の被爆建築物や被爆史跡を巡る

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NHKの「ひろしまタイムライン」が話題に

今、NHKで行っている「ひろしまタイムライン」では、新聞記者の一郎さん、妊娠中の主婦、やすこさん、当時中学1年のシュン君の3人の日記をもとにSNSが当時存在していたらという仮定で1945年当時の状況をツイッター上でスタッフの方がツイートしています。

このモデルのうち、一郎さんとやすこさんのモデルとなった方は2020年の時点ですでにこの世を去っており、存命なのはシュン君のモデルとなった方だけです。

広島・長崎の原爆が投下された日、そしてその後何があったのか知る手がかりは、その時の「記憶」という一次情報から、日記や絵画、小説といった作品などからの「記録」という間接的な二次、三次の情報へと変化しつつあります。

「モノ」(物体)という記憶

一方、別の観点から「モノ」(物体)という観点から知ることも可能です。広島平和記念資料館に展示されている展示品からは原爆のエネルギーのすごさを感じられます。また、被爆した建築物も75年経過しているので解体されてしまったものが大多数ですが、中には広島の原爆ドームをはじめとして、数は少なくなったものの被爆した建物が残っていますよ。

今回は、原爆ドーム以外にもある被爆した建築物・史跡を見ていきます。

広島原爆ドームに次いで爆心地から近い、平和記念公園レストハウス

平和公園レストハウスは、1929年に大正屋呉服店として開業。鉄筋コンクリート造りの建物は中島地区でも目立っていました。1943年に呉服店としての営業は終了し、広島県燃料配給統制組合が建物を取得。「燃料会館」といわれました。

爆心地から170mの距離にあり、原爆投下時は37人が勤務していましたが、ほぼ全員にあたる36名が死亡。たまたま地下にいた野村英三さんという方が爆心地から最も近い位置にいた生存者になりました。

1957年に東部復興事務所、1982年からレストハウスとして使用。つい先日の2020年7月1日に改修オープンしました。野村さんがいた地下1階には、その生涯や手記についてや、被爆直後の燃料会館の写真を展示してあります。

1階は観光案内所と特産品販売所、2階は休憩・喫茶ホール、3階は中島地区やレストハウスの歴史についての展示が行われています。改修工事は行われたものの、建物の一部は被爆当時のまま保存され、当時の惨状を知ることができます。

旧日本銀行広島支店は保存状態が極めて良い

1992年まで使われていた

出典: Noriaki-S / PIXTA(ピクスタ)

1936年建築で、1992年まで日本銀行広島支店として使われていました。爆心地から380mの場所に位置していましたが、頑丈な銀行建築ということもあり、被爆建築物の中でも保存状態は良いです。

被爆当時は3階で火災が発生し、建物内でも死傷者が多数発生する被害もありましたが、早くも8月8日には業務再開。1992年に広島市中区基町に移転するまで日本銀行広島支店として営業してきました。

一時は取り壊しも検討されましたが、2000年に広島市の重要有形文化財に指定日本銀行より無償貸与を受けて2005年に常時開館開始しました。

はだしのゲンの小学校のモチーフはここ!本川小学校平和資料館

広島の原爆を題材とした漫画、はだしのゲンのゲンが通っていた学校のモデルにもなっています。広島市内の公立小学校では最初の鉄筋コンクリートとして建築され、当時はモダンな雰囲気を醸し出していました。

爆心地から410mで被爆したのちも小学校として利用され、1988年に平和資料館として被爆地から集めた資料などを展示する博物館に生まれ変わりました。

展示してある被爆した遺物は原爆のものものしさを現在に語り継いでいます。

この近くには本川公衆便所が残っています。普通の公衆トイレだと思っていたものが、市民がたまたま戦後すぐに撮影された画像に建物が映っていたことを指摘したことで発覚し、被爆建物であることが分かったという珍しいケースです。

福屋本店本館は戦前からモダンな建物だった!

1972年に改修されたので一見被爆建築物だとわかりませんが、八丁堀の福屋本店本館も原爆の被害にあいました。1938年完成で、当時珍しかった冷暖房も備えていたという福屋本店は、戦時末期ということで営業はしておらず、爆心地から710mの位置で被爆しました。

戦後も百貨店として営業を続け、その姿を現在に伝えています。

広島市郷土資料館も被爆建物

広島市郷土資料館の建物

出典: PIXSTAR / PIXTA(ピクスタ)

1897年に陸軍中央糧秣廠(りょうまつしょう)宇品支廠として建設。兵士や軍馬の食糧の製造、貯蔵を目的としていました。爆心地から3.21キロメートルで被爆し、鉄骨が湾曲する被害が出ました。

今では広島市郷土資料館として、被爆資料として湾曲した鉄骨などが展示されています。

長崎の被爆建造物である城山小学校

長崎市立城山小学校(当時の長崎市立城山国民学校)の階段棟は1937年に建築され、長崎でも数少ない原爆の惨禍を今に伝える建物になっています。今では平和祈念館として見学できますが、事前に郵送での申し込みが必要です。

長崎の被爆の痕跡、浦上教会(浦上天主堂)

吹き飛ばされた天主堂の鐘楼

出典: いぐっちゃん / PIXTA(ピクスタ)

浦上教会(浦上天主堂)には、1945年原爆投下当時、ゆるしの秘跡が行われていたため、多くの人が礼拝に訪れていましたが、全員がなくなりました。そして、天主堂は全壊し、天主堂の鐘楼の一部が吹き飛ばされ30m先に落ちました。

保存の動きもあったようですが、現在では建て替えられていて、この鐘の一部だけが残っています。

長崎市山王神社の片足鳥居

長崎・山王神社の片足鳥居(二の鳥居)

出典: HIRO / PIXTA(ピクスタ)

長崎市の山王神社には片足鳥居という鳥居や被爆クスノキがあります。爆心地から約800m地点で被爆し、4本立っていた鳥居のうち2本は倒壊したものの、一の鳥居はほぼ無傷で残り(のちに交通事故で損壊)、この二の鳥居だけが画像のように片足のまま現在まで残っています。

番外編!被爆電車は今日まで広島電鉄に2両走っている

広島電鉄650形電車

出典: みやたん / PIXTA(ピクスタ)

原爆投下当時の面影を残すものは建築物以外にも電車があります。

1942年に製造された広島電鉄650形電車は5両製造され、そのうち651号車と652号車が朝のラッシュ時に今でも運転されています。

この650形も、651号車は爆心地から700m付近を走行していたため、乗客乗員のうち1人を除き全員死亡という惨事に見舞われました。652号車は被爆当時爆心地からやや離れていたため1945年の8月中には復帰しました。

毎年8月6日には原爆が投下された8時15分に2つの車両が原爆ドーム前停留所でそろうような運用がされます。

653号車は貸切専用として在籍。654号車は広島市交通科学館で保存されています。655号車は残念ながらトラックと衝突したため廃車になりました。

651号車と652号車は生まれてから78年になりますが毎朝元気にこれからも広島の足として走り続けます。

平和の尊さを今に伝える被爆建築物と史跡

原爆ドーム以外にも被爆史跡は多い

今回は原爆ドーム以外の被爆建築物や史跡をご紹介しました。広島には紹介した建物以外にも割と被爆建物が残っているのですが、長崎ではほとんどすべての建築物が取り壊されています。あの日を風化させまいという人がいる一方で、あの日のことを思い出したくないという人もいるので、難しいところです。

観光は「平和産業」といわれています。つまり、観光という行為はその土地が平和であるという前提で成り立っているのです。そして、私たちが日本各地を旅行できるのも先人の人々の不断の努力があるからです。

日本にいると平和が当たり前のように感じてしまいますが、世界各地には戦争の惨禍に苦しめられている人が今もいることを忘れてはいけません。

これからの世界がどうなるかは私たちの手にかかっていることを忘れずに、これらの被爆史跡を巡ってみてくださいね。

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