名称:首里城 正殿
住所:沖縄県那覇市首里金城町1-2
公式サイトURL:http://oki-park.jp/shurijo/
首里城の見どころ12選!~那覇の定番スポットを徹底紹介~
那覇市を見下ろす高台に建つ首里城。14世紀末から約450年にわたって繁栄した琉球王朝の首府で、沖縄県内で最も大きなお城でもあります。真っ赤な壁や瓦屋根が特徴的な正殿は、中国と日本の建築様式が見事に混ざり合い、訪れる者を魅了します。今回は、そんな広い首里城で見ておくべきスポットを12ヶ所にまとめてご紹介します。
《首里城正殿における火災について》
2019年10月31日に首里城正殿火災が発生しました。
正殿、御庭周辺は現在も立入制限されていますが、歓会門、久慶門、広福門、西のアザナ、銭蔵や火災のあった奉神門手前の下之御庭には入れるようになりました。首里城正殿基壇の遺構は世界文化遺産に登録されている重要な文化財です。火災後、焼けてしまった正殿の部材を撤去し、遺構を保護するために土で埋め戻して、現在は屋根をつけて公開しています。
最新情報は首里城公園公式サイトをご確認ください。
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目次
首里城の見どころ12選!~那覇の定番スポットを徹底紹介~
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【沖縄観光/首里城】正殿(※)
首里城正殿は、政治や祭祀などを行った、城内の中心となる建物です。中国の紫禁城をモデルとし、そこに日本や琉球の伝統建築様式を取り入れることで、独特の雰囲気と趣を生み出しています。
最初の正殿は、1453年に王位を争った「志魯(しろ)・布里(ふり)の乱」で全焼。さらに江戸時代の1660年と1709年にも焼失、そして1945年の沖縄戦で完全に破壊されてしまいました。現在目にしている建物は、戦前の姿で1992年に復元されたものです。
正殿の前は御庭(うなー)と呼ばれ、ここで年間を通じてさまざまな儀式が執り行われました。御庭から見る正殿は、正殿の赤い壁に赤い瓦、大きな唐破風と威厳たっぷり!内部には当時の資料や埋め戻された遺構などが展示されています。2階にある正殿大庫理の御差床(うさすか)にある台の側面には、リスの彫刻などが施されていて可愛らしいですよ。
※2019年10月31日の火災で首里城が焼失しましたが、沖縄県と沖縄総合事務局、沖縄美ら島財団は、2020年6月12日より首里城正殿の遺構など有料区域を一般公開しています。
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【沖縄観光/首里城】守礼門
守礼門は、2000年に発行された二千円札にも描かれた首里城の大手門です。守礼門とは俗名で、正式には「上の方にある美しい門」という意味の「上の綾門(ウィーヌアイジョウ)」といいます。正殿同様に沖縄戦で焼失し、現在のものは1958年に復元されたもの。中国の牌楼(ぱいろう)という形式で建てられているのが特徴です。
門には通称の由来である「守禮之邦(しゅれいのくに)」と記された額が掲げられています。もともとは中国からの使者(冊封使)が訪れた時に、「琉球は守礼の邦と称するに足りる」というメッセージとして掲げられていました。それ以外のときには、単純に琉球王国を意味する「中山府」の扁額を使っていました。
【沖縄観光/首里城】歓会門
歓会門は守礼門を過ぎた後に見えてきます。「歓会」とは歓迎という意味で、中国からの冊封使(さっぽうし)など正客を迎える際に使われたことから、歓会門と名付けられました。また「あまえ御門(うじょう)」とも呼ばれ、「あまえ」とは琉球の言葉で喜ばしいという意味があります。
アーチ状の城門の上に、木製の櫓が乗っているのが特徴。これは、正門である歓会門以外にも、通用門であった久慶門(きゅうけいもん)や継世門(けいせいもん)なども共通しています。また、城門にはちょっと意外ですが、沖縄らしくシーサーがいるので注目してみてください。こちらも沖縄戦で破損しましたが、1974年に復元されました。
【沖縄観光/首里城】黄金御殿と寄満
正殿の裏手には、「御内原(うーちばる)」と呼ばれる国王一族のプライベートエリアがあります。とくに「黄金御殿(くがにうどぅん)」は王妃らの寝室がある建物で、国王以外の男性が立ち入ることはできませんでした。その横に繋がった細い建物が「寄満(ゆいんち)」で、国王と親族の食事の調理を行う台所でした。
現在は、黄金御殿が特別展示室、寄満がイベントの多目的室として利用されています。黄金御殿の2階部分は正殿の南殿や、側近などおよそ20人の役人がいた近習詰所(きんじゅうつめしょ)と繋がっています。
【沖縄観光/首里城】園比屋武御嶽石門
出典: tomocchi.m92f /PIXTA(ピクスタ)
守礼門と歓会門のちょうど間あたりにある園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)。門のような形をしていますが、御嶽とは祭祀を行う場所のことで、くぐるためのものではありません。御嶽の本体は石門の背後に広がる広大な森。国王が各地へ外征する際は、琉球石灰岩で造られたの石門の前で、神に道中の安全を祈願していました。
琉球石垣建造物の代表として1933年に国宝と指定されていましたが、沖縄戦によって一部が破壊され、1957年に復元。首里城跡と同じく2000年にユネスコの世界遺産に登録され、現在は国指定重要文化財になっている貴重な建物です。
【沖縄観光/首里城】龍樋
龍の口から湧水がわき出ているように見えることから、この名が付けられたといわれています。当時は王宮の飲料水として使用されていました。冊封使が訪れた際には、現在の那覇空港付近にあった天使館という滞在先の宿舎まで、この水を運んでもてなしたそうです。名前の由来の龍の彫刻は、1523年に中国から伝来したもの。正殿など大きな建物に目が行きがちですが、実は500年以上の歴史をもつ貴重な場所なんですよ!
首里城は高台にありながら、この水は古来枯れたことがないと言われています。その秘密は、丘を形成する泥層と琉球石灰岩に隠されています。石灰岩は水を通しやすく、泥層は逆に浸透しにくいのが特徴。龍樋はその石灰岩と泥層の中間にあり、大地の傾斜を伝わった水が、こんこんと湧き出る仕組みとなっています。
【沖縄観光/首里城】漏刻門
「漏刻」とは水時計のことで、門の上の櫓に水槽を置き、水が漏れ出す量から時刻を算出したといわれています。水量を確認すると、役人が太鼓を叩きます。すると別の役人が、城内の見物台である東(あがり)と西(いり)のアザナ、そして右掖門(うえきもん)で大鐘を同時に打ち鳴らして、城の外まで時刻を知らせていたそうです。
また漏刻門は、別名「かご居せ御門」とも呼ばれています。身分の高い役人は駕籠に乗って登城していましたが、国王へ敬意を示すために、高官でもここで駕籠から下りたことにちなんでいます。
【沖縄観光/首里城】 冊封七碑
冊封七碑は、龍樋の周辺に設置された7つの石碑。中国皇帝の使者として首里城に遣わされた歴代の冊封使は、さまざまな題字を残しました。石碑にはそれらの言葉が刻まれていますが、沖縄戦によってほとんどが破壊状態になりました。
その後、1984年の発掘調査で「飛泉(せんひ)」と書かれた石碑が、割れた状態で発見されます。これが沖縄博物館で保存されていた「漱玉(そうぎょく)」という石碑とセットだったということが判明。「飛泉漱玉」は1838年に来訪した高人鑑(こうじんかん)の題字で、「清らかな泉が玉のように飛び散っている」という意味になります。
ほかにも、「中山第一(ちゅうざんだいいち)」や「雲根石髄(うんこんせきずい)」、「暘谷霊源(ようこくれいげん)」、「活溌溌地(かつはつはつち)」「源遠流長(げんえんりゅうちょう)、「霊脈流芬(れいみゃくりゅうふん)」の碑があります。飛泉漱玉を含む七碑は拓本を基に復元されたもので、琉球王国当時の様子を伝えています。
【沖縄観光/首里城】万国津梁の鐘
北殿のそばにある万国津梁の鐘(ばんこくしんりょうのかね)は、高さ154.9cm、口径93.1cm、重さ721kgの大鐘。1458年に第6代国王の尚泰久王(しょうたいきゅうおう)の命令で鋳造され、正殿に掛けられたとい伝えられています。しかし、具体的にどこにあったかは記録が残されていないため、現在の場所はあくまで推測です。
鐘に刻まれた文節には万国津梁とあり、世界のかけ橋という意味があります。さらに鐘に刻まれた文節を訳すと、「琉球国は南海の美しい国であり、朝鮮・中国・日本との間にあって、船を万国の架け橋とし、貿易によって栄える国である」となり、琉球の海洋王国として誇りや志が感じられるでしょう。
【沖縄観光/首里城】瑞泉門
アーチ状の石門となっている歓会門とは異なり、石の柱の上に木製の櫓が直接乗っている瑞泉門。櫓の中央に「瑞泉」の文字が書かれた扁額が掲げられているあたりに、琉球らしさが感じられます。首里城第2の門であり、歓会門や久慶門などができる前はこちらが正門でした。
門の右手前に前出の龍樋があることから瑞泉門と名付けられ、別名を「ひかわ御門(うじょう)」といいます。樋は河口から水を通す管や溝、あるいは屋根から受ける雨水を地面へ送り流すための装置などを指し、沖縄では井戸や泉を川(カー)と表現していました。「ひかわ」は樋と川を組み合わせた言葉で、フィージャーガーとも発音します。
【沖縄観光/首里城】書院と鎖之間
書院と鎖之間は、正殿に次ぐ大きな建物。建物は南殿の渡り廊下と繋がっていて、華やかな正殿とは対照的に、庭園があり落ち着いた雰囲気となっています。書院には国王が日常の執務を行った御書院の広間があり、側近が周囲に控えていたそうです。また書院は、冊封使や薩摩藩の役人を招いて接待する場でもありました。詳しい創建年は不明ですが、1709年に焼失後、他の建物と同様に1715年に再建されています。
王子などの控え所や、役人との懇談の場として使われていた鎖之間は、あとから増築した建物と考えられています。現在は、お茶とお菓子で当時の接待を体験できる施設。意外と起伏のある首里城内を散策する際の、休憩にも最適ですよ。
【沖縄観光/首里城】日影台
出典: cafe.soy.latte/PIXTA(ピクスタ)
水で時刻を計る漏刻に対し、日影台はいわゆる日時計です。漏刻門をくぐった先の正面に設置されていて、正午やその前後の時間を計っていました。従来の漏刻では細かい時刻までは計れないことから、漏刻よりも詳しい時刻を調べるための補助の道具として、1739年に設置されたと伝えられています。石の円盤に十二支が刻まれ、その円盤には銅製の棒を設置。その棒が作り出す日影によって、時刻を測定していました。
日時計は日時計で、太陽光の届かない日は使えないという欠点がありました。漏刻と日影台は相互に補いながら、首里や那覇の人たちに時刻を伝えていたものと考えられます。日影台での時間制度は、1879年の廃藩置県まで続きました。今では琉球王国時代の生活をうかがい知ることのできる貴重な見どころとなっています。
◎【沖縄観光/首里城】まとめ
首里城跡は、2000年の12月に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界遺産に登録されました。重なる災害や戦火によって改築や再建を繰り返したお城ですが、首里城公園内には琉球王国の歴史や文化を感じさせてくれるスポットが目白押しです。夜になるとお城と外観施設はライトアップされ、昼間とは違った姿で見ものですよ。那覇市街からは少し離れていますが、観光の際はしっかり時間を取って忘れずに見学してください。
《首里城正殿における火災について》
2019年10月31日に首里城正殿火災が発生しました。
正殿、御庭周辺は現在も立入制限されていますが、歓会門、久慶門、広福門、西のアザナ、銭蔵や火災のあった奉神門手前の下之御庭には入れるようになりました。首里城正殿基壇の遺構は世界文化遺産に登録されている重要な文化財です。火災後、焼けてしまった正殿の部材を撤去し、遺構を保護するために土で埋め戻して、現在は屋根をつけて公開しています。
最新情報は首里城公園公式サイトをご確認ください。
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