奴隷貿易の歴史が残るガンビアの世界遺産「クンタ・キンテ島と関連遺跡群」

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奴隷貿易の歴史が残るガンビアの世界遺産「クンタ・キンテ島と関連遺跡群」

西アフリカ西岸のガンビアを地図で確認したとき、真っ先に気になるのはおそらくその不思議な国の形でしょう。これはガンビア川を船で遡って進出したイギリスと、陸路で勢力圏を拡大したフランスが衝突した際、河岸から200マイルをイギリス領として妥結したことにちなんでいます。

そんなガンビアには、世界遺産が2つあります。1つは隣国セネガルにもまたがる「セネガンビアの環状列石」。そしてもう1つが、今回ご紹介する「クンタ・キンテ島と関連遺跡群」です。クンタ・キンテ島は、最大で川幅10kmほどにもなるガンビア川に浮かぶ小島。セネガルのゴレ島と並ぶ、奴隷貿易の象徴ともいえる世界遺産です。

そのほかには、首都バンジュールにある「六連砲台」、その対岸にある「バレン要塞」、およびクンタ・キンテ島の北の対岸にある「サン・ドミンゴの遺跡群」「ポルトガル人の礼拝堂の遺構群」「CFAOの社屋」「モーレル兄弟の商館」の6つの構成資産が含まれています。ここでは、「クンタ・キンテ島」と「ガンビア川河口」、および「アルブレダとジュフレ」という3つのカテゴリに分けてご紹介します。

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奴隷貿易の歴史が残るガンビアの世界遺産「クンタ・キンテ島と関連遺跡群」

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クンタ・キンテ島と関連遺跡群とは?

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ガンビア川流域に最初に到達したヨーロッパの国はポルトガルでした。彼らは15世紀半ばにクンタ・キンテ島対岸のアルブレダ周辺に入植地を建設しました。世界遺産に含まれている「サン・ドミンゴの遺跡群」や「ポルトガル人の礼拝堂の遺構群」は、このときに造られたものです。当初は現地の首長と友好的な交易を行っていましたが、期待していたほどの黄金が得られないと知ると、ポルトガル人はガンビアを去っていきました。

16世紀に入ると奴隷貿易が活発となり、ガンビア川に浮かぶクンタ・キンテ島は黒人奴隷の輸出拠点としてクローズアップされます。最初にこの島に拠点を築いたのは、バルト海の交易国家クールラント公国でした。彼らは1651年に島に要塞を築きましたが、ほどなくオランダ、次いでイギリスに占領されます。イギリスはこの島をジェームズ島と名付け、1807年に奴隷貿易を廃止するまで300万人ともいわれる黒人奴隷がこの島から輸出されていったといわれています。この間、要塞は何度もフランスや海賊の襲撃に遭い、実際には18世紀末までには荒廃していました。

奴隷貿易が廃止されると、無用となったジェームズ島は放棄され、逆に違法な奴隷の取引を摘発するため、ガンビア川の河口に2つの要塞が建設されました。そのうち南岸側の六連砲台の周辺には新しい都市「バサースト」が拓かれ、これが現在のガンビアの首都バンジュールにつながっています。こうした、奴隷貿易の前と後も含めた「諸段階」を伝える遺構群という点が認められて、2003年に世界遺産に登録されました。

ただし、登録当時のクンタ・キンテ島はまだ「ジェームズ島」と呼ばれていました。クンタ・キンテ島とは、アメリカでベストセラーとなったアレックス・ヘイリーの小説『ルーツ』に登場するヘイリーの先祖クンタ・キンテの名前にちなんで、2011年に改名されたもの。作中でクンタ・キンテは、この島からアメリカ大陸へ輸出されていったとされています。

クンタ・キンテ島と関連遺跡群へのアクセス

日本からバンジュール国際空港への直行便はありません。カサブランカやブリュッセル、アムステルダムなどを経由する必要があります。バンジュール市内には、世界遺産の構成資産の1つ六連砲台がありますが、観光客の立ち入りは制限されています。バンジュールからフェリーでガンビア川を渡った対岸のバッラには、六連砲台と対をなす構成資産のバラン要塞があり、こちらは見学可能です。

ガンビア川のなかに浮かぶ世界遺産クンタ・キンテ島へ行くには、バッラからタクシーで東に向かい、島の対岸の村アルブレダかジェフレを目指します。この2つの村からはいくつかのクンタ・キンテ島に渡るツアーが出ているので、お好きなものに参加しましょう。またアルブレダとジェフレにも計6箇所の世界遺産の構成資産があります。

バンジュールから直接船でクンタ・キンテ島に行くクルージングツアーもあるので、日程や予算などと相談して決めると良いでしょう。

クンタ・キンテ島と関連遺跡群のおすすめポイント①:クンタ・キンテ島

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世界遺産「クンタ・キンテ島と関連遺跡群」の中心的な構成資産であるクンタ・キンテ島は、ガンビア川の河口から30kmほど遡ったところにあります。最短でも島から対岸まで2kmほどもあり、海から直接船で乗り付けることのできる重要な奴隷貿易の拠点でした。

1651年に要塞が建設されて以降、島の所有権はイギリスやフランス、オランダなどの間で争われ、要塞は7度も破壊と再建を繰り返しました。しかし、真水を対岸から運ばなければならないなど衛生に配慮されていなかったことから、島は常に風土病の危険に晒されていました。奴隷のみならず、配属された人員の多くが数年ともたずに倒れたといわれています。

1815年には完全に放棄され、島にはバオバブが生い茂り、ペリカンの生息地にもなりました。今でも島には、要塞や奴隷たちを収容していた施設の遺構が残っています。奴隷たちにとっては、ここがアフリカで踏む最後の土であったクンタ・キンテ島。ガンビアにおける奴隷貿易の最も負の側面を伝えるスポットです。

クンタ・キンテ島と関連遺跡群のおすすめポイント②:ガンビア川河口

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ガンビアの首都バンジュールは、ガンビア川河口南岸に突き出た岬の先端に位置しています。かつてはバサーストと呼ばれていたこの町には、奴隷貿易廃止後の密貿易を取り締まるため、1821年にイギリスによって六連砲台(Six-Gun Battery)が建造されました。文字通り6門の24ポンド砲からなる砲台でしたが、対岸まで砲弾が届かないという欠点がありました。

その問題を解決するために1827年に築かれたのが、同じく世界遺産のバレン要塞です。これら要塞&砲台のコンビによって、ガンビア川の航行は完全にイギリスの掌握するところとなりましたが、1870年には役割を終えて放棄されました。

現在、六連砲台はガンビアの議会堂敷地内にあり、残念ながら観光客が自由に見学することはできません。バレン要塞の方は、バンジュール対岸のバッラのフェリー乗り場から歩いて行ける距離にあり、観光も可能です。

クンタ・キンテ島と関連遺跡群おすすめポイント③:アルブレダとジュフレ

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クンタ・キンテ島の北の対岸のアルブレダからジュフレにかけて、残る世界遺産の4つの構成資産が点在しています。

そのうち「サン・ドミンゴの遺跡群」と「ポルトガル人の礼拝堂の遺構群」は、前述のとおりクンタ・キンテ島に要塞が築かれる以前に入植したポルトガル人が建てたもの。前者はポルトガルの交易拠点の跡で、建物の壁や床が残るほか、いくらか復元も行われています。後者も壁を残すのみですが、奴隷貿易の始まる前の、穏やかな交流が図られていた時期の貴重な遺構として世界遺産に登録されています。

他方の「CFAOの社屋」と「モーレル兄弟の商館」は、名前から推察できるとおり貿易に関する施設です。いずれも奴隷貿易が廃止された後の19世紀中ごろのもので、前者はフランス人、後者はイギリス人が建てたとされています。

とくに「モーレル兄弟の商館」はジュフレの村にある唯一の世界遺産で、現在は修復されて博物館となっています。根拠は定かでないものの、『ルーツ』に搭乗するクンタ・キンテはジュフレの出身とされ、その生家という伝統的な家屋も再建されています。

◎まとめ

ガンビアの世界遺産「クンタ・キンテ島と関連遺跡群」についてご紹介しました。奴隷貿易の負の遺産だけでなく、その前後の遺構も合わせて登録されているのが、この世界遺産の特徴です。

アフリカの奴隷貿易のルーツと発展の諸段階をたどることができる世界遺産。この地域の歴史に関心をもったら、ぜひ訪ねてみてください。

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